Tome文芸館 Annex

自作読み物を紹介。動画用朗読音声を常時募集。英訳はGoogle翻訳。

思い出

近づけない家

僕は巻物のような地図帳を手に持って 見知らぬ町並みを独り歩いている。彼女の住所が書かれたメモは胸ポケットにある。こうして気になる知人の家を探し出すのが 僕の趣味だった、という時期があった。娯楽が今ほどない時代のゲーム感覚だったのだろう。だが…

大きな柿の木

子どもの頃、実家には大きな柿の木があった。木造二階建ての屋根よりずっと高かった。親父の手作りだろう、さお竹の先に針金の輪があり それに網袋を装着した補虫網のような道具で 屋根の上から柿の実をもぎ取っていた。小学校の同級生がすぐ下の道を通ると…

ばあちゃん

僕の両親はどちらも養子だった。母方の遠い親戚にあたるそうだが明治生まれの義理の祖母は耳の遠い人だった。幼い僕が大声で怒鳴っても聞こえない。どうしても伝えなければならないことがあるのに いくら説明してもわかってくれないので そのうち僕が泣いて…

いくら?

高校の教室、廊下側の端の後ろから二番目の席。授業中であったか休憩時間であったか思い出せない。手のひらの上に小銭が少しばかりのっていた。つまらないことを思いつき、その手を握り締め すぐ後ろの席にいる同級生に突き出す。握った手を一瞬開いて、すぐ…

そこにいない

ふと思い出してしまう。あの夜、僕は電子ピアノを弾いていた。いつものデタラメな即興演奏。店内は真っ暗闇。ただし、入口の鍵は閉めていない。約束も何もしていないけれど 君が来るのを待ちながら弾いていた。外は土砂降りの雨だった。雷鳴さえ聞こえた。僕…

Coin Toss

画面には男の片手だけが見える。一枚のコインを親指の爪で弾き、打ち上げる。落ちてきたそれを受け取り、再び打ち上げる。「今度こそ、あいつを始末しろ」手の持ち主の声がする。悪の組織のボスであろう。彼の声は聞こえるが、決して顔は見せない。男の片手…

砂利道の赤ん坊

これはこの正月、実家に帰省したおり すっかり腰が曲がって小さくなった老母から聞いた話である。昔の田舎は舗装道路ではなく、砂利道がほとんどだった。適当な大きさに粉砕した石ころを地面に敷いただけの道。まだ幼かった私をその砂利道、おそらく農道に置…

日報の提出

ふと思い出したのだが ある会社の社員だった時、ある日から急に 作業報告書のような日報を書くことを強制され それを週末に上司に提出しなければならなくなった。最初はきちんと書いて提出していた。そのうち面倒になり、提出が遅れるようになった。いつか怒…

天下の奇書

昔、変な仕事をしていた。製薬会社の社員のフリして大学の医学図書館へ潜入し 指定された医学雑誌の論文をコピーする、というもの。AIDSなども、ニュースで話題になる前に 外国の医学雑誌の論文タイトルで初めて知った。奇形児とか末期の梅毒患者の顔写真と…

マットとブルマー

君は美人で、賢くて クラスでも学年でも一番モテて 上級生と付き合っている という噂まであった。自信も勇気もない僕は何もできず ただ憧れているだけだった。ある時、陸上大会があるとかで その練習だろうか たまたま君と体育館で二人きりになった。マット…

バイクに乗って

僕はバイクに乗って どこへ行こうとしていたのだろう。やぼったい原付バイク いわゆる農道バイクを押しながら 中学生だった僕は真夜中、こっそり家を抜け出したのだ。ただでさえ近眼乱視なのに 親父のサングラスまで無断で借りて 深夜のツーリングとは まっ…

黒いバス

これが夢なのか実体験なのか、不明。 ただ、私のもっとも古い記憶のようなのだ。 まだ赤ん坊の私が這いながら 積み上げられた俵の小山を登っている。実家の前から続く細い坂道を下って 大きな道にぶつかる丁字路のところ。前方から黒い小さなバスが現れ こち…

時代の流れ

小学校に入学した頃、実家にテレビが流れ着いた。丸みのあるブラウン管の白黒テレビ。小さな画面を拡大して観るためのフレネルレンズがあった。当時はNHKの他に民放一つ、計3チャンネルしかなかった。切り替えはグリップ式のダイヤルだった。おそらくその前…

懐かしき日々

土を掘り 種を植え 水をやり 雑草を抜き やがて芽が出て 葉をつけて ついに いくつか花が咲いた。けれど もはや根は拡がらず ささやかな夢は ついに実ることなく うなだれ しぼみ 力尽き ひっそり ひっそりと 枯れてしまった。なのに その苦(にが)いはずの記…

卒業

高校の卒業式は 受験のため 出席できなかった。思い出の絵巻の中に そこだけ ポッカリ穴があいている。それだから私には 高校を卒業した実感がない。届けてもらった卒業証書も いつの間にか なくしてしまった。元「koebu」宏美(ろみりん)さんが演じてくだ…

暗く長い廊下

暗く長い廊下の向こうには石炭置き場がある。その当時の学校のストーブは電気でも石油でもなくて 石ころの石炭を燃やしていたのだ。崩れた崖のような黒い石炭の斜面をスコップで掘り 銀色のブリキのバケツに移す。そして、それを教室まで運び ストーブの脇に…

手の痛み

保母さんの弾くオルガンの音が聞こえる。幼い僕たちが小さな手と手をつないで輪を作ってお遊戯をしている。僕のすぐ隣はひとつ年長の女の子。突然、その子とつないだ手に痛みが走る。僕の手のひらに、彼女が爪を立てている。幼いながらもすごい力。驚いて横…

煙草の幻覚

若い頃、煙草を吸いすぎて気持ち悪くなり、目を閉じて項垂れていたら幻聴が始まった。遠いざわめきのようなかすかなノイズが次第に近く大きくなり、はっきり言葉にならないものの大勢に囲まれて罵倒されているような声になる。無理に言葉にすれば、こんな感…

オレンジ色

今日もまた暑くなりそうだった。少年の頃、夏休みの昼下がり。冷房のない蒸し暑い部屋。友だちなんかいなくて 床に寝転んで天井を見上げていた。暑くてだるくてなにもする気がしない。汗が出てハエがいてセミがうるさくて とても昼寝なんかできそうにない。…

泣かないで

高校二年の授業中、校内放送があって名前を呼ばれた。(なんだろう?)職員室へ行き、受話器を受け取り、父親の事故死を告げられた。階段裏の掃除道具なんか置く狭くて暗い場所でしゃがんで泣いた記憶がある。父親が死んだことが悲しくて泣いたのは二日くら…

罪悪感

皿の上に饅頭が二個のっていた。それは兄と僕、僕たち兄弟のオヤツだった。兄はまだ帰宅してなかった。家に僕ひとり。僕は、僕の分の一個を食べた。すごくおいしかった。腹が空いていたのだろう。とにかくおいしかった。だから、当然ながらもう一個の饅頭も…

下宿の思い出

田舎の高校を卒業して、上京。江戸川区平井の下宿で独り暮らしを始めた。大家である老夫婦が一階の半分に住み 一階のもう半分と二階に下宿人が住んでいた。便所と流しは共同の四畳半で、家賃は月9,000円。風が吹くと揺れるような古い木造のボロ下宿だった。…

雪国の思い出

生まれも育ちも雪国なので 雪にまつわる思い出など。日本そして世界有数の豪雪地帯なので 冬になると積もった雪で電線をまたげた。ブルドーザーが道を作ると 自分の身長の三倍くらいの高さの雪の壁ができた。その壁に穴を開けて 玄関までトンネルを掘ったり…

カワニナの研究

中学時代、科学部に所属していた。研究対象は伝統的にカワニナと決まっていた。カワニナは小川に生息する巻貝で ホタルの幼虫の餌になる。当時、まだホタルは普通に見られた。川辺にゴザを敷き、毛布や飲食物を用意して キャンプみたいに「24時間観察」など…

美女との遭遇

これは実話なのだけれど 僕が高校を卒業して上京したばかりの頃 ある電車に乗ったら、信じられないくらいの美女を見つけた。ふと気づけば 彼女の目の前のシートに腰掛けている自分がいた。いくら一目惚れでも 見知らぬ他人に声をかける勇気はない。そうなの…

秘密基地

雑木林を抜けると、ちょっとした広場があった。近所の子どもたちの遊び場だった。寺の裏山なので、墓場から続く小道もあった。この広場の端に小さな家を建てた。丸太や枯れ枝で組んだ掘っ立て小屋だった。ささやかながらも、秘密基地なのだった。あれは梅雨…

洞窟の十字架

ほんの宝探しごっこのつもりだった。 そんなふうに冒険したい年頃だったのだ。 近所の山の崖崩れがあったみたいなところに 洞窟の穴があった。 その入り口は鉄の扉で塞がれていた。 丈夫そうな錠前も掛かってはいたが 扉の蝶番は錆びて壊れていた。 というか…

手のひら

場面は夜の病室なのだった。家に帰らず看病していたとすると おそらく身内の者が入院していたのだろう。それが誰だったのか思い出せないが きっと大切な人だったはずだ。病室にはベッドがいくつか並んでいた。つまり個室ではなかったわけだ。小さな照明はあ…

昆虫と植物の関係

二十歳の頃、大発見をしたような気がして 眠れないほど興奮したことがある。 昆虫は変態成長をする。 たとえば蝶なら、卵、幼虫、サナギ、成虫となる。 これが植物の生長とそっくりなことに気づいたのだ。 被子植物の生長点部分は、種子、芽、つぼみ、花とな…

空き缶

砂浜の波打ち際朽ちた流木のすぐ近く陸に寄せる波に押し上げられたり海に戻る波に引き下げられたりそれが気持ちよくてやめられず他人の視線など気にする余裕もなく笑ったり叫んだりしながら繰り返し繰り返し繰り返し心ない人に捨てられた空き缶みたいにいつ…